世界へ、そして未来へ 神奈川大学

栄光の軌跡 Episode1 若き指導者と神大駅伝チームの出会い

本大会出場の重責を担い
コーチに就任した大後栄治。
15年間箱根から遠ざかっていたチームを
わずか3年で本大会出場に導いた秘訣とは…

大学時代に培われた経験をもとに
箱根への道は若き指導者に託された

ふたたび箱根駅伝の舞台へ。大後栄治がその重責を担って神奈川大学(以下、「神大」)の門をくぐったのは、1989年4月のことだった。箱根駅伝への復活のため大学が長距離専門の指導者を探しており、陸上競技部駅伝チームのコーチおよび大学の助手として採用されたのである。

大後は、日体荏原高等学校から箱根駅伝を目指して強豪・日本体育大学(以下、「日体大」)へ進んだ。日体大は1969年に箱根駅伝初制覇、その後5連覇を果たし、大後が入学した83年には9回目の総合優勝を飾っていた。当時の部員数は約130名で、そのほとんどが日本全国から集まった“足自慢”たちだった。そんな陸上のエリート集団の中で箱根駅伝を目標に練習に励んでいた大後を故障が襲う。腰を痛めてまともに走れないという状況が1年以上も続いたのだ。悩み苦しんだ末、大後はマネージャーへの転身を決意した。

当時の日体大には奇妙な状況が続いていた。それは、監督・コーチがいないという指導者不在の体制だった。本来なら指導者が行うべき選手の勧誘から練習メニュー、レースの戦略などを学生主導で行っていたのである。そんな状況の中、大後は臆することなくマネージャーとして強豪チームの運営を担い、日体大長距離ブロックの要として活躍した。大後ら学生主導の日体大は、大後が4年生の時、箱根の往路で優勝、復路は順天堂大学の追撃の前に屈したものの、総合で準優勝に輝いた。
大後は、卒業とともにそのまま日体大の大学院に進み、運動生理学を専攻、将来の指導者としての礎になるスポーツの科学理論を習得した。後に大後は、日体大での4年間を「いい意味でも、悪い意味でもあの経験の全てが今に結びついている」と語っている。

「再び箱根へ」という周囲の期待と反して
大後が直面したチームの現状

大後 栄治 現監督(当時コーチ)

「練習中はやってもいないのに、やっているというポーズをとる。そして、食べない、寝ない。自分を律しないから長距離ランナーとしての身体にならない。本当に路頭に迷っていた」と当時を振り返る。

神奈川大学は1936年に箱根駅伝初出場を果たした。(学校名は前身の「横浜専門学校」)その後、しばらくは箱根の常連校としての地位を保っていたが、大後がコーチとして就任した1989年当時は15年もの間、本大会出場から遠ざかっていた。折しも1987年、第63回大会からテレビでの生放送が開始され、箱根駅伝が日本全国に広がり始めた時期でもあった。箱根駅伝復活への道を探っていた神大にとって、名門・日体大で学生ながら駅伝チームの運営に手腕を振るい、大学院でスポーツ理論を修めた大後への期待は大きかった。

神大は、数年前から入試においてスポーツ強化の推薦制度を採用し、陸上競技部にも神奈川県を中心に中学・高校で活躍したランナーたちを招いていた。1989年当時の神大駅伝チームの部員数は約30人、その内25人ほどがスポーツ推薦で入学した学生だった。大後はコーチ就任当初に部員たちの実績をみて、「このメンバーなら予選会通過まで2~3年あればなんとかなるかな」と楽観的に考えたという。しかし、いざ練習を開始してみるとその希望はもろくも崩れた。陸上選手として最低限やらなければいけないことができていなかったのだ。 部員たちは中学・高校と陸上競技で実績を残してきた選手であり、誰もが神大で箱根を目指そうという気持ちはもっていた。しかし、練習での選手たちに覇気はなく、現実味も無かった。加えてスポーツ推薦というプレッシャーも重くのしかかっていた。

始まった改革。
そして生まれた信頼「このコーチについていけば…」

「チーム全体にできないという空気が蔓延していた。みんな目標を失って途方に暮れている感じだった」と当時を振り返って大後は語る。それでも、「俺があきらめたらおしまいだ」と自分に言い聞かせた。そして、なりより大後自身が若かった。その若さを活かして選手たちとの間に壁を作らないことを心掛け、実の兄のように部員たちと接していった。

大後はまず部員たちの生活改善から手を付けた。スポーツ選手の基本である、きちんと食べて、睡眠をとるという習慣を徹底させたのだ。そして、コーチ就任2年目にはアパートを借り共同生活をスタート、3年目には大学のグラウンドだけでなく、公共のグラウンドも借り、さらに移動の手段としてマイクロバスを用意するなど、練習に集中できる環境を構築していった。

ちなみにアパートでの共同生活はいわば荒療治だった。六畳一間に2人を押し込み、門限も設けたため、今まで自由な学生生活を送ってきた部員の一部、特に3、4年の上級生たちからは強い反発が生じた。そこで大後はまだ部の色に染まっていない、やる気のある1年生部員たちに働きかける。「コーチと選手という立場こそ違うが、俺とお前たちは神大の同期なんだ。お前たちならできる。俺についてこい」と。その想いに1年生部員たちが応え、チームの雰囲気が変わり出すと、徐々に上級生たちも1年生たちの動きに巻き込まれていった。そうなると今までできなかった練習ができるようになった。もともと実力のある選手たちが高校時代のポテンシャルを少しずつではあるが取り戻していったのだ。そうして、少しずつ「このコーチについていけば」という気持ちがチーム全体に芽生えたのである。

勝負の年、就任3年目にしてつかんだ箱根への切符

そして迎えた1990年の箱根駅伝予選会で神大は8位に入る。予選通過ラインの6位まではもう一息だったが、この予選会で明らかに部員たちの眼つきは変わった。大後にとっても初めて手応えを掴んだ瞬間だった。
翌1991年、大後の指導のもとで3年目を迎えた神大駅伝チームは、部員各々の能力が向上するとともにチーム力も高まってきた。箱根駅伝を見据えて行ってきた20キロへの対応力を高め持久力アップを狙った練習メニューが功を奏してきたのだ。

大後はさらに選手のメンタル面の強化もはかった。「絶対に箱根に出るんだ」という強い意志を植え付けるため、箱根の常連校である東京農業大学に頼んで合同練習を行い、10月の予選会に臨んだ。そして予選会では、出走した選手が着実に走り、4位に入る。この結果、ついに1992年第68回箱根駅伝への出場を決めた。神大としては実に18年ぶりの本大会出場である。

Episode2 無念の棄権。そして駅伝部全員でみせた神大の意地Episode2へ

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